志子思策文選

Zmatar/碇雷ナオキの著作集、と言ったところか。ガチ文章ばかりだから、趣味的な文章を読みたい方はディスプレイ室をよかったらどうぞ。

何人の著作物も削除されてはならないと言いたい。

 2022年2月10月、ホロライブ3期生潤羽るしあが行ったゲーム配信内で、人気歌い手のまふまふ氏との恋愛関係を示唆できるDiscordのメッセージが映り込んでしまう事故(?)が発生。それを発端としてVTuber業界内でも大規模な炎上事件が発生した。所謂ガチ恋営業や、アイドル売りで人気を博していたホロライブにとってこの事態は大きな問題ではあったものの、初期の対応さえしっかりと行われさえいれば、すぐに解決できた問題でこれはあったかもしれない。が、実際にはアンチや過激派ヲタクによる燃料投下により炎上は更に拡大することになった。それはただ起こったことによるファンのダメージが大きかったからだけではない。何より、潤羽るしあの半身であるM氏が精神不安からか、暴走してしまったからだ。

 

 そんなわけで、潤羽るしあの騒動がますますやばい事になってるからもっかい言うわ。
 ふぁんでっと達、るーちゃんの動画、配信アーカイブを保存し、Twitterの諸々のツイートをスクショし、保存すべきだ。正直今騒動がここまで大きくなってしまった以上、潤羽るしあはもう復帰は絶望的と考えているが、本当にそうなった際にチャンネルやTwitterアカウントが保存されず運営の判断で削除となる可能性が高いと推測しているからだ。今や健全クリーンなバーチャルタレントの事務所のイメージを保持したいカバーにとって、恐らく彼女は邪魔者だろう。

 しかし、俺はどんなにその著作者が所謂悪人で許され難い人物であっても、関係する人々に撮って目の上の痰瘤であったとしても、あらゆる著作物は残されるべきと主張する。潤羽るしあチャンネルとそこに残された動画・配信アーカイブ、それからTwitterアカウントにツイートされた記録されるべきツイートは、須らく保存される必要があると言いたい。カバー株式会社よ、決して削除はしないで欲しい。

 このことを考える上で、月下カヲルの前例を思い出して欲しい。彼は社会的問題を起こしたことで解雇された訳だけど(このことはあくまで説の域を出ず、もしかしたら違う事情により引退することになった可能性もあるが今回はそれが正しいという前提で話す)、その際に彼のYouTubeチャンネル・Twitterアカウントが全削除になってしまった。これにより、我々は彼の過去動画を見返すことが出来ず、「色々あったけどあれおもろかったな。」などということが不可能になってしまったわけだ。

 この際に注意しなければならないことに、このことは単に楽しかったという過去の思い出が隠されたという話ではない。これは歴史の否定である。ポリコレの過激化による歴史修正や過去の文学作品批判と同じ、自らの都合のために過去を覆い隠し、そのことを無かったことにする行為だ。

 歴史というのは人々の自由意志を中心とした動きによって構成される自然的産物である。人間が過剰に自然を破壊してはならないことと同じように、過ぎた過去も手を加えていいとは思えない。無論、「現在」問題になってることで自らの発言、行動の撤回や、制作した著作物の削除・修正は必要に応じてなされることは認める。しかし、もう既に過ぎた過去や解決した問題などでそれをするのは宜しくないと思う。また、歴史修正を認めたら過去から学ぶということが難しくなってしまい、過去に起こった失敗と同様のミスを後の世代が繰り返すという問題が生じる恐れがある。だから尚更歴史はしっかりと記録される必要があると言えよう。

 そうだ、国立国会図書館は現在法律に於いて所持、発行が禁止されている書籍も閲覧こそ許可されていないものの保管されている。その書籍が発行されたという事実は消すことが許されていないことや、それがあるということで何か我々は学べるものがあるからということ、そして後世になって世の中の考えが見直され、それらの書籍やそのジャンルが閲覧・所持・発行が許可された時、再びそれを見ることが可能であるようにするためなのがその理由だろう。

 纏めると、俺がるーちゃんのチャンネルが残されるべきとする理由は、それを削除することは歴史の否定である上に、また見ようと思ったとしてもそれが不可能となってしまうということが主な理由だ。その上で、こうした炎上事件が起きてしまったということを確固たる証拠付きで残しておくことでこれから先の配信者達が教訓に出来るようになるからというのも付随している。楽しかったという過去の思い出、それは紛れもない事実なのだから、こんな炎上で消えてしまうということは避けられて欲しいものだ。

 もう一度言う、あらゆる著作物というものは残されるということに意義があると俺は考えている。過去の出来事は決して否定されてはならず、寧ろ保存され、後世の人にあらゆる可能性を残すべきなのだ。

 そして、物事というのは今現在の価値観だけで判断されてはならず、常に時代ともに人々の社会や価値観は変化していく中でも、人々の自由は常に保証されるということを保証するということに繋がると最後に付け加えて話しておきたい。