ホワイト社会なんてクソ喰らえ。
初めに:この記事は、Twitterにツイートしたものの、写になります。
ホワイト社会なんてクソ喰らえ。
人々が潔癖を求めていって、最後残るのは究極の不寛容社会だろ。人々の行いは品行方正が当たり前、ネットでもリアルでも聞こえのいい発言しか認められない。誰も本音を話さない。それが当たり前。
そんな綺麗な、美しい世界を保ちたいから、ちょっとでもそうでない人を軽蔑する。コミュニティの外に追い出していく。最たるはそいつ相手なら攻撃を認める。でその通り攻撃する。表に出さないストレスや本音、黒い暴力的な本能を吐き出すように。自分の中の「悪」を棚上げしながら。
岡田斗司夫氏が、「黒い欲望を社会的に昇華して、ホワイト化が進んでいく」と言ったが、それには限界があると思う。ホワイト化が進み、表に出しづらい感情が人の心に溜まりに溜まっていき、丁度吐き出せるチャンスが、誰か「悪人」を叩くことなんだろう。それも界隈から追い出し二度と帰らせない位に。
結局、「この世界に生贄は必要」という事なのか。否、俺はどうしてもそれを是とすることが出来ない。そんな生き方する人は結局は何かに縋り、お互いを慰め合いながら、誰か「悪人」を批判してストレス発散しなきゃ生きれないルサンチマンだと思うんだ。
本当は…、人は、ストレスは自分自身の心の中で昇華して、で、嫌なものは見ない、いちいちそれが何が嫌でどうこう突っ込まないで、あくまでも自分の好きなものを見つけてそれだけに生きる。それが、あるべき姿だと思うんだが…。そうすれば、ホワイト化だのなんもなくて、ただ人々の「真の多様性社会」がそこにはあるんだと、俺は言いたくて仕方がない。
何人の著作物も削除されてはならないと言いたい。
2022年2月10月、ホロライブ3期生潤羽るしあが行ったゲーム配信内で、人気歌い手のまふまふ氏との恋愛関係を示唆できるDiscordのメッセージが映り込んでしまう事故(?)が発生。それを発端としてVTuber業界内でも大規模な炎上事件が発生した。所謂ガチ恋営業や、アイドル売りで人気を博していたホロライブにとってこの事態は大きな問題ではあったものの、初期の対応さえしっかりと行われさえいれば、すぐに解決できた問題でこれはあったかもしれない。が、実際にはアンチや過激派ヲタクによる燃料投下により炎上は更に拡大することになった。それはただ起こったことによるファンのダメージが大きかったからだけではない。何より、潤羽るしあの半身であるM氏が精神不安からか、暴走してしまったからだ。
そんなわけで、潤羽るしあの騒動がますますやばい事になってるからもっかい言うわ。
ふぁんでっと達、るーちゃんの動画、配信アーカイブを保存し、Twitterの諸々のツイートをスクショし、保存すべきだ。正直今騒動がここまで大きくなってしまった以上、潤羽るしあはもう復帰は絶望的と考えているが、本当にそうなった際にチャンネルやTwitterアカウントが保存されず運営の判断で削除となる可能性が高いと推測しているからだ。今や健全クリーンなバーチャルタレントの事務所のイメージを保持したいカバーにとって、恐らく彼女は邪魔者だろう。
しかし、俺はどんなにその著作者が所謂悪人で許され難い人物であっても、関係する人々に撮って目の上の痰瘤であったとしても、あらゆる著作物は残されるべきと主張する。潤羽るしあチャンネルとそこに残された動画・配信アーカイブ、それからTwitterアカウントにツイートされた記録されるべきツイートは、須らく保存される必要があると言いたい。カバー株式会社よ、決して削除はしないで欲しい。
このことを考える上で、月下カヲルの前例を思い出して欲しい。彼は社会的問題を起こしたことで解雇された訳だけど(このことはあくまで説の域を出ず、もしかしたら違う事情により引退することになった可能性もあるが今回はそれが正しいという前提で話す)、その際に彼のYouTubeチャンネル・Twitterアカウントが全削除になってしまった。これにより、我々は彼の過去動画を見返すことが出来ず、「色々あったけどあれおもろかったな。」などということが不可能になってしまったわけだ。
この際に注意しなければならないことに、このことは単に楽しかったという過去の思い出が隠されたという話ではない。これは歴史の否定である。ポリコレの過激化による歴史修正や過去の文学作品批判と同じ、自らの都合のために過去を覆い隠し、そのことを無かったことにする行為だ。
歴史というのは人々の自由意志を中心とした動きによって構成される自然的産物である。人間が過剰に自然を破壊してはならないことと同じように、過ぎた過去も手を加えていいとは思えない。無論、「現在」問題になってることで自らの発言、行動の撤回や、制作した著作物の削除・修正は必要に応じてなされることは認める。しかし、もう既に過ぎた過去や解決した問題などでそれをするのは宜しくないと思う。また、歴史修正を認めたら過去から学ぶということが難しくなってしまい、過去に起こった失敗と同様のミスを後の世代が繰り返すという問題が生じる恐れがある。だから尚更歴史はしっかりと記録される必要があると言えよう。
そうだ、国立国会図書館は現在法律に於いて所持、発行が禁止されている書籍も閲覧こそ許可されていないものの保管されている。その書籍が発行されたという事実は消すことが許されていないことや、それがあるということで何か我々は学べるものがあるからということ、そして後世になって世の中の考えが見直され、それらの書籍やそのジャンルが閲覧・所持・発行が許可された時、再びそれを見ることが可能であるようにするためなのがその理由だろう。
纏めると、俺がるーちゃんのチャンネルが残されるべきとする理由は、それを削除することは歴史の否定である上に、また見ようと思ったとしてもそれが不可能となってしまうということが主な理由だ。その上で、こうした炎上事件が起きてしまったということを確固たる証拠付きで残しておくことでこれから先の配信者達が教訓に出来るようになるからというのも付随している。楽しかったという過去の思い出、それは紛れもない事実なのだから、こんな炎上で消えてしまうということは避けられて欲しいものだ。
もう一度言う、あらゆる著作物というものは残されるということに意義があると俺は考えている。過去の出来事は決して否定されてはならず、寧ろ保存され、後世の人にあらゆる可能性を残すべきなのだ。
そして、物事というのは今現在の価値観だけで判断されてはならず、常に時代ともに人々の社会や価値観は変化していく中でも、人々の自由は常に保証されるということを保証するということに繋がると最後に付け加えて話しておきたい。
ツイートまとめりゃ記事になるだろうってことでもっかいまとめてみる。
Hello,everybody.
せっかくブログというものがあるのにも関わらず、全然利用せずにTwitter上での短い言葉で済ませてしまう俺氏Twitterのツイートなんてのは、あっという間に次のツイートに押されて、わざわざ検索しないと読めないようになってしまったりしてしまうものだ。という訳で、今回はまた、過去ツイの中でも特に、というツイートを、色々と纏めようかなと思う。一応、本題として、最近チラホラと進んでいる、「表現規制」と言うモノについてのツイートを掲載しようと思う。それじゃ早速レッツラゴー。
- 言わば前座の散文達
- 枕草子 私抄訳
- 女の子って清楚だとは言うけど…
- ウマ娘 バンナムテスコとか書きたい&創作意欲がやばいという話
- ペットの不妊の行き着く先ってさ
- 誰かの心に俺は寄り添えるのか
- What is Pawing?
- 俺の中の残酷さ
- 恋愛私感
- 先生からの贈り物は…?
- 本題:表現規制の流れを受けての俺の心境
言わば前座の散文達
枕草子 私抄訳
(はてなブログの仕様上か、画像が表示されてません。読んでみたい方はリンク先まで)
Zmatar/Ikazuchi Naoki on Twitter: "香炉峰の雪 Twitter語訳… "
Zmatar/Ikazuchi Naoki on Twitter: "枕草子 虫 Twitter語訳… "
いつかは全訳にチャレンジするつもり。
女の子って清楚だとは言うけど…
ウマ娘 バンナムテスコとか書きたい&創作意欲がやばいという話
Zmatar/Ikazuchi Naoki on Twitter: "でも、実際書こうとなると、何十人の関係者の方々に許諾を得る旅をする必要があるのやら。"
(以下2ツイートリンク先画像に本文)
Zmatar/Ikazuchi Naoki on Twitter: "続き。まじで書きたくなってきたな。これ。 (その前に今書いてるやつ、さっさと続き投稿しろ。)… "
Zmatar/Ikazuchi Naoki on Twitter: "まじでニートで居続けたいと本当に氣で思い始めたな。 そうでもしないと、創作に必要な時間が足りなすぎる。"
ペットの不妊の行き着く先ってさ
誰かの心に俺は寄り添えるのか
What is Pawing?
俺の中の残酷さ
恋愛私感
追記:もし付き合うなら、俺の「遊び」を許容できる人がいいな。あくまでその相手は抱きたい相手ってだけであって、本命は「お前」だから。そこは約束する。(ほんとか?)
先生からの贈り物は…?
(最初のツイートに画像あり)
Zmatarさん👅🥟🎪⛄️♌🌾🏮🔺🦉📕 on Twitter: "結構さっき、唐突に高校の時の先生から自分の本送り付けられてきたwwwwww… "
本題:表現規制の流れを受けての俺の心境
考え始めた恐らく一番のきっかけは、「人造人間キカイダー」の現在買える単行本に表現の修正がなされてしまってると知ったことである。
復刊ドットコム版の話はさておき(いつか買うよ、未収録ページ読みたいしキカイダー氣に入ったから)、ようやく最初期の単行本を入手する…(ヤフオクで落札価格、送料、支払い手数料…計¥3,251 高かった…。)
Zmatarさん👅🥟🎪⛄️♌🌾🏮🔺🦉📕 on Twitter: "ずっと読みたかった萬画を手に入れた。… "
表現規制によって大変な苦労をして、それから約1ヶ月後、共産党の公約が表現規制するとの内容に変わったことを知る。
Zmatar/Ikazuchi Naoki on Twitter: "さっきから表現規制がどうこう考え込んじゃって勉強に集中できねぇ。"
以降は、もはや表現規制どうこうは関係がほぼないが、これから書くの主張の為に掲載する。
Zmatar/Ikazuchi Naoki on Twitter: "だーめだ。色々正義に関しては色んな考えがあって自分でも矛盾ばかりだ。 どっかのタイミングで、ブログに全てをまとめねば。"
…とまぁ、表現規制がどうこうを考え始めたら、そもそも【「正義」とはなんだ】と言うことを改めて考え出すまで俺の頭は飛躍してしまった。大多数の自由を守る為には、誰かの「人の自由を奪う「自由」」を許してはいけない。生きたいと願う人がいる限り、「ムカつくからと人を殺す「自由」」を許してはいけない。けど、そうした行為もまた「誰かの自由」を結局は奪ってるということを着目してしまうと、それは「悪」に思えてしょうがない。そもそもそうしたあらゆるルールというものは、ただヒトが人になるに従って、仲間同士暗黙の了解で結ばれた社会契約によるものに過ぎず、この世の絶対的真理として存在するものでないなどと言った言わば詭弁を呈したくもすらなってしまう。が、そこまで野生回帰せずに抑えることは出来てるのが幸いだ。
俺は誰の自由も奪いたくない。だからこそ、これからも、一生をかけて、正義というものを考えていきたい。そして、それを小説作品の中で語っていきたい。
おまけ …と言うかちょっとしたオタクの独り言
ラミィちゃんの誕生日配信、リアタイしたかったなぁ…ねぽらぼ1周年の時もラミィちゃんのだけ見れなかったし。ラミィ運がないなぁ…。
は、さておき。ラミィちゃんオリ曲を発表したそうな。や っ た ぜ。これでねぽらぼ全員オリ曲持ちや。やっぱりホロライブ5期生なんだよなぁ。ホントすごいよ。みんな。ねねち、ポルカ、ししろん、ラミィちゃん。最高の4人だ。
誕生日&オリ曲おめでとう、これからも大好きだよ。
最近のツイートをまとめて掲載すれば立派な記事になるんじゃねえか。
俺、全然このブログ使ってねぇな!?
いや、あかんなこれ。ブログやってる意味がねぇ。書くべきこと、思ってること、沢山あるのに面倒くさがって書かない。こうしてズルズルと時だけが流れる。ヤバイ。なんなら大々的にブログの記事として完成させるつもりだと宣言してた「GHOST」考察全くしてない。これじゃたブログをしてるなんて言えない。
しかし、最近の俺の行動を見返そう。Twitterにバンバンツイートしてるじゃんか。
それ、ブログにすればよくね!?
て訳で、最近のツイートをまとめて掲載することでお茶を濁そうかなと思うw
ジャンルバラバラなんで、言ってしまえばかなり雑な内容に今回なる訳だが、自分が興味あるところから良かったら読んでみてね。
ただし、最後の方にまとめたのは、どうか見て飛ばさないで欲しい。
続きを読む「応援する」ということ
まずはっきりと言っておこう。俺は原則として他人や物事、自分の身体の外で起きてることに一切無関心だ。氣分屋でそのときふと思い立ったことや、思いつきのように決めたことを適当にやって暮らしているような人間である。
が、いつもそんな感じな俺だが、どういう縁があるのやら、VTuberのこととなれば直ぐに飛びついてしまう。一喜一憂色々これまで経験してきたが、そうなる理由はただ一つ。俺がVTuberを愛していて、応援しているからだ。
普通世間で人と話せば、誰もが何かしらを好きになり、そして何かしらを心から応援していることがわかる。しかし、よく考えるとこの「応援」というものは不思議な概念である。その対象に対してお節介をする訳でもなければ、自分の中にある期待を押し付けることでもない。一般に、そういう考えを持ってしまったり、実際にそう取れる行動を起こしてしまったら、それは応援してる思われない。本質的に真に誰かを応援するということは、どういうことになるのだろうか。
まず第一にして、人は自分のことは結局自分でやってくしかない。自分のやりたい目的を果たすためや、そもそも自分を立てようとする時に、他人を蹴落とすことをしたり、或いは他力に頼って縋ったりする者はその時点で自立した人間ととても認めることは出来ないものだ。正々堂々と、自分の身一つで無情なるこの世とぶつかって、そして他人に自分自身を認めさせる、それが自立というものでないか。であるから、幾ら特定の他者のことを愛し、彼の目的を達成させてあげようと心の内で思うのは仕方が無いとして、実際に手出しをしてしまうことは、彼の自立を阻害することと他ならない。
ところが、幾ら手出しをしないと自分が心に決めても、また実際に努力し行動する側も幾ら他力に期待せず自力で貫こうとしても、人間であるが故に感情というものがついてまわる。見てる側としては相手に好意がある以上何もせずは、「援け」をしなくてはいられなくなる。行動者も何かしらのリアクションを求める、何か「応え」を心の何処かで求めてしまう傾向があるものである。逆もそうである。行動者であれば、自分が成果を出すことで何かしら見てくれる人に対して「援け」を出せればいいと思ったり、見てる側もいわば見てあげてることに氣付いてるという証拠、「応え」に期待するところはないということは出来ないだろう。
この時、人は、そんな自分の内に秘めた諸感情を何よりも言葉に昇華することで感情的なやり取りを交わすのだろう。即ち、「頑張れ」と「ありがとう」の交換である。「頑張れ」という言葉それ自体は所詮は単なる声帯から発せられた音に変わりはない。それ自体が何か対象の目的達成のためのツールになるか、全くならない。「頑張れ」という言葉はそもそもそういう他力の効果を込めたものではないからだ。その言葉を発する者は、その言葉を届ける相手に対して、あくまでも自力での達成を望んでいるからである。と言うより、それが俺の思う理想のサポートの形である。
人は自力でなんでもしていかなければならない。だからそれを阻害してはならない。我々が誰か好意を寄せてる者に対して真にすべきはそんな自立した状態を維持させ続けることである。自立した状態を維持させること、それこそが真に行動者を目的達成に導く最大の手段である。そうであるから、つまり真の「応援する」ということは、相手の自立心の維持や強化を願い、言葉でもって積極的に自分の好意を示すことや実際にその活動している様子を自己の娯楽も兼ねて見てあげること、その好意を伝えるためや相手に必要であるものをプレゼントすること、或いは自分と同じ相手が好きな仲間も増やすことであると俺は考える。また、今述べたように、応援することの手段は人それぞれであり、決して強要されるものでは無い。自分の氣が向く時に、自分なりのやり方で相手の自立していく心を支えればいいのである。
そして、応援された活動者は、自らの自立した姿勢を維持し続けなければならないとする維持のような、責任のようなものを抱えることとなる。少なくとも応援されることを不快に感じたり、活動の邪魔になるものと見る者は、まず人に発見され応援されるに至らないだろう。目標達成の為に、外部からの悪い影響によってその精神を左右されては、とても実現できるとは思わない。ただ、外部からのいい影響によってモチベーションを上げることは寧ろ目標達成の可能性を爆発的に引き上げることになる。故に、応援されたのであればそれを肯定的に常に受け入れ、その先を自立を保つのが人の義理なのではないか。それこそ、目標を達成することが、応援されたことに対する最もな返答であることは間違いないだろう。
「応援」と言う言葉は、「応ヘテ援ケル」と「援ケニ応ヘル」のどちらにも読むことが出来そうである。前者は、他者の声に反応してそのサポートをするイメージが、後者は、相手からの助けを受けてそのお返しをするようなイメージが浮かぶ読み方だ。しかしどちらにせよ、誰か他者の存在を前にして、何らかの形をとった呼び掛けに反応して返答をするということに変わりはない。言うなれば、応援というのは人間の良好な関わりそれ自体のことと見れる。基本はお互い、自分の持てる能力を存分に使って自立日々の活動を全うする。ただ自らの能力不足を他人に悟られたときの自己の自立に影響を及ぼしすぎない程度の渡し物は快く受けいれ、その後更に自立を高めることで相手の心の助けとなってお返しをする。「各人からはその能力に応じて、各人にはその必要に応じて。」という有名なマルクスの言葉があるが、何も経済や社会的な話だけにとどまらない、各々自立に向かう他者同士の応援し合う姿を描いた言葉と言った方が正確だろう。
人はどこまで一人になれればいいのだろうか。人はどこまで他者と関わればいいのだろうか。はっきりとした真理に氣付いた者を俺は知らない。ただ、ひとつ絶対に欠かせないことと思うことは、他者の自立をサポートしそしてまた自らも自立する、「応援」の概念だ。
頑張れ。
私こそが、Zmatarである。
徒然なる儘に、日暮、スマフォに向かひて、心にときめく由無し事を、然と掴みて書きつくってきた ー
Hello everybody! Zmatarこと、正式通名:碇雷ナオキだ!此度、この俺Zmatarさん、高校を卒業し、本格的に人生上での諸々の活動をしていくことになりました!!!!それに伴って、今までのクソみたいなアカウントを、これから先もメインとして人様の前で使い続けるのは精神衛生上宜しくなく、ガチ活動用に、Twitterアカウントとブログの新しいものを用意すべきと判断した。こうして新しいTwitterアカウントとこのブログを本日、設立することになった!てかもうした!
まぁ、今回は新ブログ最初の記事であると言うことで、改めて、最新版の自己紹介をしていこうかなと思う。Twitter・ブログ始めたての自分と3年も経って変わったところがかなーりあると思うからそれも踏まえながら、書いていこう。
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