志子思策文選

Zmatar/碇雷ナオキの著作集、と言ったところか。ガチ文章ばかりだから、趣味的な文章を読みたい方はディスプレイ室をよかったらどうぞ。

「応援する」ということ

 まずはっきりと言っておこう。俺は原則として他人や物事、自分の身体の外で起きてることに一切無関心だ。氣分屋でそのときふと思い立ったことや、思いつきのように決めたことを適当にやって暮らしているような人間である。

 

 が、いつもそんな感じな俺だが、どういう縁があるのやら、VTuberのこととなれば直ぐに飛びついてしまう。一喜一憂色々これまで経験してきたが、そうなる理由はただ一つ。俺がVTuberを愛していて、応援しているからだ。

 普通世間で人と話せば、誰もが何かしらを好きになり、そして何かしらを心から応援していることがわかる。しかし、よく考えるとこの「応援」というものは不思議な概念である。その対象に対してお節介をする訳でもなければ、自分の中にある期待を押し付けることでもない。一般に、そういう考えを持ってしまったり、実際にそう取れる行動を起こしてしまったら、それは応援してる思われない。本質的に真に誰かを応援するということは、どういうことになるのだろうか。

 まず第一にして、人は自分のことは結局自分でやってくしかない。自分のやりたい目的を果たすためや、そもそも自分を立てようとする時に、他人を蹴落とすことをしたり、或いは他力に頼って縋ったりする者はその時点で自立した人間ととても認めることは出来ないものだ。正々堂々と、自分の身一つで無情なるこの世とぶつかって、そして他人に自分自身を認めさせる、それが自立というものでないか。であるから、幾ら特定の他者のことを愛し、彼の目的を達成させてあげようと心の内で思うのは仕方が無いとして、実際に手出しをしてしまうことは、彼の自立を阻害することと他ならない。

 ところが、幾ら手出しをしないと自分が心に決めても、また実際に努力し行動する側も幾ら他力に期待せず自力で貫こうとしても、人間であるが故に感情というものがついてまわる。見てる側としては相手に好意がある以上何もせずは、「援け」をしなくてはいられなくなる。行動者も何かしらのリアクションを求める、何か「応え」を心の何処かで求めてしまう傾向があるものである。逆もそうである。行動者であれば、自分が成果を出すことで何かしら見てくれる人に対して「援け」を出せればいいと思ったり、見てる側もいわば見てあげてることに氣付いてるという証拠、「応え」に期待するところはないということは出来ないだろう。

 この時、人は、そんな自分の内に秘めた諸感情を何よりも言葉に昇華することで感情的なやり取りを交わすのだろう。即ち、「頑張れ」と「ありがとう」の交換である。「頑張れ」という言葉それ自体は所詮は単なる声帯から発せられた音に変わりはない。それ自体が何か対象の目的達成のためのツールになるか、全くならない。「頑張れ」という言葉はそもそもそういう他力の効果を込めたものではないからだ。その言葉を発する者は、その言葉を届ける相手に対して、あくまでも自力での達成を望んでいるからである。と言うより、それが俺の思う理想のサポートの形である。

 人は自力でなんでもしていかなければならない。だからそれを阻害してはならない。我々が誰か好意を寄せてる者に対して真にすべきはそんな自立した状態を維持させ続けることである。自立した状態を維持させること、それこそが真に行動者を目的達成に導く最大の手段である。そうであるから、つまり真の「応援する」ということは、相手の自立心の維持や強化を願い、言葉でもって積極的に自分の好意を示すことや実際にその活動している様子を自己の娯楽も兼ねて見てあげること、その好意を伝えるためや相手に必要であるものをプレゼントすること、或いは自分と同じ相手が好きな仲間も増やすことであると俺は考える。また、今述べたように、応援することの手段は人それぞれであり、決して強要されるものでは無い。自分の氣が向く時に、自分なりのやり方で相手の自立していく心を支えればいいのである。

 そして、応援された活動者は、自らの自立した姿勢を維持し続けなければならないとする維持のような、責任のようなものを抱えることとなる。少なくとも応援されることを不快に感じたり、活動の邪魔になるものと見る者は、まず人に発見され応援されるに至らないだろう。目標達成の為に、外部からの悪い影響によってその精神を左右されては、とても実現できるとは思わない。ただ、外部からのいい影響によってモチベーションを上げることは寧ろ目標達成の可能性を爆発的に引き上げることになる。故に、応援されたのであればそれを肯定的に常に受け入れ、その先を自立を保つのが人の義理なのではないか。それこそ、目標を達成することが、応援されたことに対する最もな返答であることは間違いないだろう。

 「応援」と言う言葉は、「応ヘテ援ケル」と「援ケニ応ヘル」のどちらにも読むことが出来そうである。前者は、他者の声に反応してそのサポートをするイメージが、後者は、相手からの助けを受けてそのお返しをするようなイメージが浮かぶ読み方だ。しかしどちらにせよ、誰か他者の存在を前にして、何らかの形をとった呼び掛けに反応して返答をするということに変わりはない。言うなれば、応援というのは人間の良好な関わりそれ自体のことと見れる。基本はお互い、自分の持てる能力を存分に使って自立日々の活動を全うする。ただ自らの能力不足を他人に悟られたときの自己の自立に影響を及ぼしすぎない程度の渡し物は快く受けいれ、その後更に自立を高めることで相手の心の助けとなってお返しをする。「各人からはその能力に応じて、各人にはその必要に応じて。」という有名なマルクスの言葉があるが、何も経済や社会的な話だけにとどまらない、各々自立に向かう他者同士の応援し合う姿を描いた言葉と言った方が正確だろう。

 人はどこまで一人になれればいいのだろうか。人はどこまで他者と関わればいいのだろうか。はっきりとした真理に氣付いた者を俺は知らない。ただ、ひとつ絶対に欠かせないことと思うことは、他者の自立をサポートしそしてまた自らも自立する、「応援」の概念だ。

 

 頑張れ。